なぜ「こいつら100%伝説」は面白いのか

岡田あーみんのリボン連載作品の三作、 「お父さんは心配症」、「こいつら100%伝説」、「ルナティック雑技団」、 はコアな人気を獲得し、遺伝子に刷り込まれると評されるほどのインパクトを与えてきた。

どの作品が一番好きか、意見は分かれるだろう。 ただ私にこの質問がなされるなら「こいつら100%伝説」と答えることは決まっている。 なぜ面白いのか。三つほど観点を与える。

突っ込み

お父さんは心配症のメイン突っ込み役はヒロインの典子、ルナティックのそれはやはりヒロインの夢実になる。 彼女たちはヒロインであり、作品中唯一の常識人である。群がる変態たちに彼女たちが読者観点の指摘を行うことでギャグが成立する。

典子と夢実は少女漫画の主人公であるため、あまり無茶はさせられない。最後の最後まで常識人で存在する。あーみん自身が指摘した通り、「これだけ変なキャラクターがそろってる変態マンガで最後の最後まで1コマのこらずまともだったなんて」「…ぜったい異常だ」という位置づけになっている。

「こいつら100%」の突っ込み役は主にお師匠さんか危脳丸になる。彼らは変態の一味であるが、いじられ役でもあり、何かとひどい目にあっては必死に不条理を訴える役目になる。この作品にもヒロインは存在するが、大した出番はない。 師匠と危脳丸は初めから三枚目で登場するため、典子や夢実にはさせられない仕打ちにより、勢いのある突っ込みが生まれる。ボケは突っ込みによってその面白さは何倍にも増幅する。あーみんは大阪で育っているのでいくらか漫才の影響を受けていると考えることもできる。

必死

前述のとおり、師匠と危脳丸はとにかくひどい目にある。私が一番吹き出してしまうのは、特に危脳丸が追い込まれたときに見せる必死の形相だ。追い込まれた極限から場合によっては命を懸けた状態から必死の突っ込みがなされる。それを冷静に受け止める極丸、逆に必死に追い込まれるターミィ。この連鎖がたまらなく面白い。

「お父さん」と「ルナティック」は一応ストーリーで話が成り立っており、日常の中に変態たちがボケを入れていく構成になっている。「100%」も当然話にはなっているが、基本何でもありだ。場を転がせば変態たちが暴れて、暴れることによって話が進む。そして自ら修羅場を迎えボケと突っ込みの応酬が始まる。彼らが必死になるのは、もう初めから日常など放棄した作者の創作方針であり、作者とともに必死に話を進めていかなければならない。

テンポ

必死になった彼らは畳みかけるようにボケ始める。このテンポがすさまじい。特に「100%」の後半になるほど加速度的に勢いが出てくる。

似た勢いは「お父さん」のかなり後半にも表れている。「お父さん」はかなり日常を扱った作品であるが、後半になるほど5000万円を盗まれたとか、白血病と診断されるとか、「100%」に似た修羅場を作者に与えられるようになる。

これはどうやら作者自身が修羅場になっているということのようだ。

「お父さん」はネタの創出で行き詰まり、「100%」は作者の言葉通り担当の一声で忍者マンガという想定しない連載が始まりかなり初期から行き詰っていた。そしてマンガ夜話でたびたび語られた通り、ギャグマンガ家はとにかく消費する。描くほどに残っているものはなくなり、あーみんは典型的にこのタイプに思える。断筆は必然なのだろう。

行き詰っても締め切りはやってくる。1ページ、場合によっては2・3コマを埋めるためにボケを考え、次の2・3コマを埋めるために次のボケを考える。結果すごいテンポが生まれる。と私には見える。

幸か不幸かあーみんのキャラは一発ギャグを持っていない。困ったときに「ともだちんこ!」とやってくれる登場人物はいない。今までにないボケを持ってくるしか原稿を埋めるすべはない。

結論

「100%」は必死で追い込まれた作者が必死に消耗しながらとんでもない勢いを作り上げていったから面白い。

「ルナティック」での少女漫画化はこの反動に思える。消耗するしかなかったギャグ漫画家が生きながらえるにはストーリーでページを埋めてく手法が必要だった。